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2009年04月 アーカイブ

2009年04月08日

ニューオーリーンズ・ジャズ

ニューオーリーンズ・ジャズ (New Orleans Jazz)は、1900年代に発生、1910年代までに確立したとされる、アーリージャズに属する一つで、発祥の町の名を冠したもの。

米国南部ルイジアナ州ニューオーリンズ市(New Orleans, LA)周辺で南北戦争終了時ごろ、開放された黒人やクレオール(黒人と白人のハーフ)らで始められ、後の多様なスタイルのジャズに分かれていった音楽の一つで、以後のジャズ音楽のおおもとになった形式。典型的なものは、コルネット(または、トランペット)、トロンボーン、クラリネットなどの3管が中心となって、集団即興演奏が特徴で、そういった楽器の編成や演奏スタイル、素材など、以後のジャズに影響を与えつつも、はっきり区別できる。

1920年代初頭に、ここニューオーリーンズの歓楽街が閉鎖されたことにより、ここのジャズ演奏家は、シカゴ市などに流れ、活動の拠点を移すこととなる。ルイ・アームストロングなども例外ではなかった。しかし、彼らは、活動拠点を移しただけで、シカゴ・ジャズとは異なる。

1940年代、音楽から遠ざかっていたニューオーリンズのミュージシャンたちがビル・ラッセルによって再発掘され、ニューオーリンズ・ジャズは再び注目を浴びる。これを、古いジャズの復興という意味でリバイバル・ブームと呼ぶ。日本にも戦後アメリカ文化の流入によって受け入れられ、人気を博した。この時期のミュージシャンでは、バンク・ジョンソン、ジョージ・ルイスなどが有名である。

現在ニューオーリンズ・ジャズはモダン・ジャズやファンク、ラテン音楽などの影響を受けて進化を続ける独特の音楽としてニューオーリンズの町に根付いているが、ファンの高齢化などによって衰退の兆しが見える。

JAZZの語源 [編集]
この地区での当時のスラングで、女性性器や性行為をjass、売春宿をJass Houseと呼んでいて、売春宿の待合室や酒場を主な活動場所にしていた演奏家たちのことをJASS BANDと呼んだことが、JAZZの語源となったという説もあるが、「JAZZはシカゴで成立した語」「フランス語のjaserから」などと、現在でもその語源ははっきりしない。

音楽理論的側面 [編集]
狭義の調性、つまり長調と短調に基づく音楽である。和声的にはケーデンスの法則(カデンツの法則)を重視した和音連結が行われている。また、近親調への転調や内部転調も行われていた。使用される和音はトライアドが主体であり、しばしばセブンス・コードも用いられた。和声的にはクラシックの古典派と同じ内容をもっている。ルイ・アームストロングは和声的側面、リズム的側面、スタイルの発展に大きく貢献した。9thや13thといったテンションをよく用いたり、より複雑で難しいリズムのフレーズをしばしば用いた。また、全てのパートが音楽的に同等の意味を持つアンサンブル主体のスタイルから、各楽器ごとにソロを回していくスタイルを一般的にしたのも彼である。また彼は、ニュー・オーリンズの地域的なスタイルであったスキャットでメロディを歌うスタイルをシカゴへと持ち込み、ジャズのスタイルとして一般的なものにした。ジャズの特徴的な要素は、このころほぼ全て完成された。

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2009年04月25日

ロシア主導の汎スラヴ主義

19世紀後半、オスマン帝国の衰退が明らかになると(いわゆる「東方問題」)、ロシア帝国はバルカン半島への勢力拡大のために汎スラヴ主義を唱えるようになる。一般に「汎スラヴ主義」と言った場合、特にこの時代の汎スラヴ主義運動を指すことが多いが、その結実した時期は非常に短い。第一次世界大戦の起源としてロシア帝国主導の汎スラヴ主義とドイツ帝国、ハプスブルク君主国主導の汎ゲルマン主義の衝突を推定するのは、一般的には行われているが、疑問が残る。

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ロシア主導の汎スラヴ主義が結実するのは、1912年にロシアの外相セルゲイ・ドミトリーイェフ・サゾノフの尽力によってバルカン同盟が結成されたときであった。しかしバルカン同盟諸国は各々別の思惑で同盟に参加し、結束は弱かった。そのため、1912年から1913年に第一次バルカン戦争が行われると、オスマン帝国から獲得した領土を巡って同盟諸国が分裂した。

この分裂の結果、1913年中にバルカン同盟加盟国であったブルガリアがギリシアに攻撃を仕掛けて第二次バルカン戦争が勃発、バルカン同盟は崩壊した。汎スラヴ主義者、特にロシア帝国内の汎スラヴ主義者はこれに失望し、汎スラヴ主義も終焉を迎えることとなる。

特に戦後から第一次世界大戦にかけてロシアが度々ブルガリアとセルビア、ギリシアの関係修復を試みたにもかかわらず、ブルガリアが両国に奪われたマケドニア地方の割譲を要求し続けたことは、スラヴ諸国の連帯が幻想であることを見せつけることとなった。結局ブルガリアはマケドニアの領有を目指して第一次世界大戦で同盟国側に立って参戦し、セルビアを壊滅に追いやることになる。

そして第一次世界大戦中の1917年にロシア革命が発生し、ソヴィエト政権が単一民族優位主義を否定したため、汎スラヴ主義は消滅することになった。

汎スラヴ主義の残滓
バルカン戦争とロシア革命により汎スラヴ主義はまとまりを失って失敗に終わるのであるが、その成果として以下の二国の建国を挙げることができる。

チェコ・スロバキア
1848年以降もチェコとスロバキアの統一思想は、チェコ主導で続けられた。第一次世界大戦が始まると、チェコ人やスロバキア人の一部は汎スラヴ主義に従い、チェコスロヴァキア軍団を結成して東部戦線で連合国側に立って戦った(ロシア革命後その去就が問題となり干渉戦争、シベリア出兵の要因となる)。

1918年にハプスブルク君主国が崩壊すると、マサリクを初めとするチェコスロヴァキア主義者の活動により、チェコ・スロバキア共和国の建国が実現した。チェコスロバキアは第二次世界大戦前に解体され、チェコはナチス・ドイツに併合され、スロバキアには傀儡政権が樹立されたが、戦後チェコスロバキアが再興した。

1993年、東欧民主化の結果としてチェコとスロバキアの連邦解体が決定(いわゆるビロード離婚)し、チェコとスロバキアの統一は平和裡に終わりを迎えた。

ユーゴスラビア
1848年の失敗以降、南スラヴ人の統一思想はセルビアで育まれることになる。20世紀に入るとクロアチアやスロベニアでも南スラヴの統一を求める政党が結成された。

第一次世界大戦はセルビアへのハプスブルク君主国の宣戦布告によって始まり、1915年末にセルビアは同盟国に国土を占領され、アドリア海のコルフ島に亡命することとなった。一方オーストリア領内の南スラヴ統一主義者はユーゴスラヴ委員会を結成し、ロンドンへ亡命。1917年にセルビア政府とユーゴスラヴ委員会の間でコルフ宣言が合意され、戦後カラジョルジェヴィチ家の国王による南スラヴ人の王国を建国することが決まった。

1918年、ハプスブルク君主国の崩壊を受けて南スラヴ人統一国家が建国された。ただし、南スラヴ人のうちでもバルカン戦争で対立したブルガリアが含まれることはなかった。国名は紆余曲折の末、「セルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国」となったが、当初からセルビア人とクロアチア人が激しく対立。国王アレクサンダル1世はセルビア中心主義色を強め、1929年国王独裁を開始。国号をユーゴスラビア王国に改めた。

一時期日独伊三国同盟に加盟していたが、1941年脱退し中立国となる。しかし突如ナチス・ドイツが侵攻し、クロアチア独立国、セルビア等々に分裂した。戦後統一され、共産主義のユーゴスラビア連邦が建国された。

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は1991年にスロベニアとクロアチアの独立宣言により内戦に陥り、2006年に全ての構成共和国が独立して消滅することとなった。

1945年から2003年までのユーゴスラビア社会主義連邦共和国およびユーゴスラビア連邦共和国とセルビア・モンテネグロの国歌は、中東欧のスラブ民族に自立を促す歌詞で、汎スラヴ主義の象徴的なものである。

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